第2編 歴史
第3章 近世
第4節 庶民の生活
1 新田畑の開墾と草山争論
麻畑開発の経緯
麻畑は、松崎の松田昌見(初代東郷町長・松田昌造家の祖)の資本投入と、麻畑の清水家の先祖次郎兵衛らの努力により開発された。その経緯は、おおよそ次のとおりである。
請免制の推進者として知られる鳥取藩士・米村所平が、伯耆の村々を巡回中発病した。種々治療したが回復せず、たまたま、着座・和田家が見舞いとして差し遣わした松田昌見医師の手当てが効を奏し、所平は程なく全快した。
松田家に残る文書によれば、元禄13年(1700)春、昌見は河村郡大庄屋山根村甚蔵・宗旨庄屋橋津村団次郎・組頭(組頭庄屋か)久見村次六と4人連れで「黒松見物」に行き、麻畑を検分した際、これらの人たちから開発を勧められた。農業には「不鍛錬者」(知識・経験のない者)の昌見であったが、「作方功者(さくかたこうしゃ)」(農業に熟練した者)であったこれらの人の勧めにより開発を決意した。在方役所に対する交渉には、大庄屋甚蔵が当たったらしい。当時、米村所平は在方相談役の職にあり、新田開発は彼の所管であったと思われる。昌見医師の願いは聞き届けられた。昌見に恩義を感じていた所平の取り計らいがあったことがうかがわれる。
開発に着手して以来、入植者が度々変わり、また、洪水による田地の流失などがあって開発は困難を極めたが、同17年(1704)2月、桑原村(青谷町桑原)次郎兵衛が麻畑に移り、それ以後田畑の開発が進められ、現在に至っている(「覚書之事」麻畑・清水正男所蔵)。当初の10年間は無年貢であった。初めて藩の検地を受けたときは、印田1町4畝26歩、印畑6畝9歩、高11石1斗3升7合、免3ツと定められている。その後の開発で、『ふるさと東郷』によれば、「総じて美田五町余、畑八町余、山林二○町余」に達したという。松田氏の後援を受けて、開発に従事した麻畑住民の努力の結晶であろう。