第2編 歴史
第3章 近世
第4節 庶民の生活
1 新田畑の開墾と草山争論
新田畑の開墾
藩は年貢の増徴のため、開墾を奨励したから、新田畑も次第に増加した。表26は前掲の文化5年(1808)の「御郡中村々御下札帳写」から「開高」を抽出したものである。
この帳簿では朱高に開高を加えて高(今高)を計算しているので、この開高は藩初から文化初年までの開墾高とみてよかろう。
開高の大きい順では、門田・長江・引地・長和田・藤津となる。いずれも東郷池周辺の村々であるから、池周りの新田を開発したものと推察される。
次に、長和田の年貢免状により、同村の新田開発の推移をみると、表27のとおりである。
中ごろに60年余りも不明な時期もあるが、開発の速度はほぼ平均しているようにみえる。
新田を開発すると、3年間は無税、4年目からその村の下田の斗代に3ツ免を納めさせ、その後年貢免状が6年ごとに書き替えられる度に、次第に斗代・免を引き上げ、最終的にはその村の本免を課せられることになっていた(『鳥取藩史民政志』)。しかし、長江の年貢免状によれば、免2ツという新田もみられ、免3ツあるいは4ツなど低い免の時期が20年以上も続いている。本免を課せられるまでには、開田30年以上も経過する場合があったことが知られる。
新田の面積は300歩を1反とし、本免を課せられるに至って初めて2割の入畝が認められた。その計算は実面積を1.2で割って求める。300歩(1反)は250歩、すなわち8畝10歩として土地台帳に登録されることになる。
町内で最もよく知られているのは、麻畑の開発であろう。
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