2編 歴史

3章 近世

3節 和田氏と自分政治

6 和田邦之助

 

和田邦之助と因幡二十士

 文久3年(1863)8月17日、河田左久馬を首謀者とする22名の尊王攘夷派の鳥取藩士が、在京の藩主側用人助役黒田権之介以下4名を京都本国寺内の宿舎に襲撃し、殺害した。藩主慶徳が尊王攘夷の態度を鮮明にしないのは、これら4名の「君側の奸(かん)臣」のためであるとして、この挙に出たのである。行動を起こしたのは22名であったが、事後、1名は自害、1名は金策に出たまま帰らなかったので、残った20名が「因幡二十士」と呼ばれている。

 和田邦之助は急進尊攘派の影響を強く受けており、テロ直前に首謀者・河田左久馬は邦之助を訪ね、計画について相談した。計画を聞いた邦之助は、しばらく思案した後、「清側(君側清掃)の事、一に子に依頼す。但し、事遂げなば速かに来り余に報ぜよ」と答えたという(『鳥取県史3近世政治』)。邦之助は、藩内尊攘派から期待を寄せられていた人物であった。しかし藩主慶徳は、将軍慶喜と兄弟であった関係もあり、公武合体・尊王敬幕攘夷の立場にあったので、邦之助とは意見を異にした。慶徳は過激派と通じた邦之助を信任せず忌避していたといわれる。

 二十士のその後の行動については、前掲『鳥取県史』などに詳述してあるので、ここでは述べない。松崎の西向寺には、別所の浅田愛蔵の尽力により、昭和27年、「二十二士」の記念碑が建立された。また、浅田は和田氏の墓所を鳥取市の真教寺から西向寺に移した。