第2編 歴史
第3章 近世
弟3節 和田氏と自分政治
6 和田邦之助
入部行事
翌10日からの行事は次のとおり記されている。
御上様十日に
一、八幡宮様 御参詣あらせられ候
一、お寺へ 御仏参あらせられ候
八幡宮は今の東郷神社の随神門の辺りにあった。お寺とは松崎の西向寺であろう。西向寺には和田家4代天養院(飛弾昭信)の位牌が祀られていた。
十一日
一、堀喜左衛門様日比左中様御供にて御上様御ひらいにて、橋津迠(まで)御出あらせられ候。御昼は同村天野屋へ御出あらせられ晩には御帰りなり。
「ひらい」は「ひろい」、徒歩のこと。
十二日
一、御上様羽衣石城山へ御出あらせられ候。
御供なされ候。
日比又左衛門様
延原 忠治郎様
小鹿谷から羽衣石城山に通じる道は、今でもたどることができる。
十三日
一、御休足(息)あらせられ候。
十四日
一、町役人 に直触(じきぶれ)の者共へ御目見江(めみえ)願上げ奉り候処、御聞届け仰付させられ候へども御差支之趣にて明日に仰付させられ候。
直触については、「町人」の項で述べた。
同日
一、堀様江御成あらせられ候に付、人歩(夫)拾九人仰付させられ候事。
十月十五日御目見え仰せ付けさせられ候。
一足羽清兵衛 (町年寄)
一伊藤善十郎 (同 右)
一土井長左衛門 (直 触)
一足羽甚之右衛門(目 代)
一野口勢平 (同 右)
一山下新兵衛 (同右、兼町庄屋)
一はりまや忠十郎(直触野口重兵衛の名代)
御目見えの次第
一御上様二上台に座蒲団にて腰屏風を御立なさせられ、唐紙1ぺんへ壱人宛御呼出し(下略)
「二上台」は「二畳台」。2畳ぐらいの大きさで、身分の高い人が座る台のこと。和田邦之助はその上で座布団に座り、腰ほどの高さの屏風(びょうぶ)を立てて、1人ずつ呼び出し、御目見えの度ごとに唐紙を開閉したと記録している。
16日には秋房助重郎・倉吉屋兵三郎・美原屋吉右衛門の3人がお目見えした。
17日には河村郡役(大庄屋・宗旨庄屋)4名、八橋の津田氏の使者が「御歓に参上」した。入部とは一種の慶祝行事であったとみられる。18日には倉吉にお出での予定であったが、雨天のため延期になった。
19日には、「町内孝行人・心得方宜敷者(よろしきもの)・老人之者」が組頭同道にて御陣屋で御褒美を受け、また、町役人5名(町年寄・目代)が御上下(かみしも)を頂戴した。
20日には、倉吉の富商山形兵三郎が陣屋に伺候(しこう)した。
22日には、堀喜左衛門・日比又左衛門に旧知の内それぞれ50石・20石のお返しがあった旨を記している。藩士の跡目相続の際、跡継ぎが養子であったり、幼年であったりした場合などには、家禄を減らされるのが普通であった。両氏共そのような理由で減禄されていたのであろう。この度、減禄分(旧知)のうちから加増(お返し)されたのである。陣屋の留守を預かる両氏の労をねぎらう意味の加増であろう。
同日
御上様御馬にて御帰り、勝見江御入湯あらせられ候、堀・日比氏は茄谷切わけにて御挨拶(あいさつ)、町役人も御見立仕り候事、
滞在期間は14日間であった。一応行事が終わり、邦之助は帰途についたが、途中、勝見(浜村温泉)で入湯して帰っている。