第2編 歴史
第3章 近世
弟3節 和田氏と自分政治
6 和田邦之助
和田邦之助の入部
前掲「御用日記」に和田邦之助が入部(領主が初めて領地に入ること)した時の記録がある。和田氏が小鹿谷陣屋を訪れた記録は他に伝来していないので、その経過を紹介しておく。
和田氏10代鉄之丞信元が安政2年(1855)9月病没した。信元には子がなかったので、着座家鵜殿(うどの)藤輔の第3子邦之助が養子となり、同3年、家督を相続した。18歳であった。
殿様当年は御暇(いとま)下されまじき旨仰せを蒙らせられ候につき、御滞府成さる旨仰出でられ候間、左様相心得べく候。以上。
(安政三年)五月三日仰出でられ候御触。
藩主からお暇が出ないので、本年は入部できないとお触れがあった。続いて翌4年(1857)4月、邦之助は19歳で家老職に任ぜられている。
(安政四年)九月二十五日伊藤へ寄合
一、当御上様御入部の御様子仰せられ、度々の寄合評儀仕り候て、組頭へ掃除等致し町内寄麗(きれい)に致し候様申付置候。
翌26日、町内組頭を呼び出し、「丁目代として丁内を通行する者を取り締まる役」に仰せ付けた。
同二十八日籠町(ろうまち)の処より茄谷(なすびだに)まで、田町一町内・新町上手側人夫に出る。山下新兵衛見分致し候事。
松崎神社の鳥居の辺りから舎人寄りを籠町と呼んだ。茄谷は山陰線松崎・泊間の第1と第2松崎トンネルの中間の谷で、ここまでは松崎地内である。田町全部と新町上手側の住民が入部にそなえて道直しに従事した。出役の順番に当たっていたのであろう。検分をした山下新兵衛は目代役兼町庄屋であった。
一、御上様来る九日に御入部あらせられ候に付、左様相心得申さるべく候。十月六日
いよいよ正式に入部の通知があった。8日には青谷の戎屋(えびす)に1泊(『青谷町誌』所収「石井記録」によれば「和田邦之助外一六人宿泊」と記す)し、9日9ツ時(午後零時ごろ)入部になった。
一、堀喜左衛門様 茄谷切わけにて
日比又左衛門様 御出向(でむかい)あらせられ候。
日比左仲様
「茄谷切わけ」は、前掲「松崎宿小全図」(「松崎町の範囲」の項参照)の字「茄子谷」の北端の辺りに比定される。和田氏の領地である松崎の入り口であった。現状は削られて平地になっているが、当時は低い丘綾の先端部を多少切り通して道路がつけられていたのであろう。ここまで出向いて迎えるのが、領主に対する礼儀であったと思われる。藩主が参勤を終えて帰国する際、一部の藩士が国ざかいまで出迎えたのと軌を1にするものであろう。
一、延原忠治郎様
に町役人
直触(じきぶれ) 土井長左衛門 御制札所にて
野口重兵衛 御出向
火役 海老屋善助
今屋孫三郎
一、和田邦之輔様 御年御拾九才
御家臣様 坂井 隼 馬様
神田 宣太郎様
福田 七之進様
御用人御家臣
兼役
御家臣様 日比又左衛門様
日比 左仲 様
御町奉行 延原 忠治郎様
御徒士目附 石原七郎兵衛様
御早者 井上 又太夫様
嶋田
逸 平様
御医師 景山 見 柳様
御膳番 前田 米 蔵様
坂井・神田・福田氏及び井上氏以下は、鳥取からお供をしてきた和田氏の家臣たちである。
一、御上様へ 鯉(こい)弐尾
壱斗入御樽 差上奉候
堀 様 弐升入御樽
日比様 差上奉候
延原様 大鮒(ふな)七枚宛
福田七之進様
井上又太夫様 弐升入御樽
嶌田 逸平様 御肴(魚) 差上奉候
前田 米蔵様
御茶御坊主 弐匁差上候
町役人からそれぞれに贈り物をしている。東郷池で捕れるコイ・フナなどは、贈答品としてしばしば使われていたようである。
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