第2編 歴史

第3章 近世

弟3節 和田氏と自分政治

5 和田氏支配と在方制度

 

東郷池尻川ざらえの件

 「諸事控」(『鳥取県史12近世資料』)によれば、天保14年(1843)8月、東郷池まわり13か村の庄屋が連名で、「近年、橋津川に障(さわ)りもの(4つ手網小屋など)が多いため、東郷池の水引きが悪く、度々満水となり稲作に支障があるから、河口より湊(みなと)(橋津)までの川ざらえを仰せつけ」られるよう、大庄屋戸崎久右衛門あてに願書を提出した。久右衛門は、この願書に添書をして「小鹿谷御屋敷内円蔵」に送付した。実は、これは間違いで、この願書は在方役人中の担当者に送付すべきであった。

 通知を受けた小鹿谷(和田氏)の役人は、足軽3人を出張させ、障害物の取り除き作業にかかったところ、今度は網小屋の所有者などから苦情が出た。このような経過で、大庄屋が正規の取り扱いをしていないことが判明した。

 在方役所は、「久右衛門手元取り糺(ただ)し候処、右はそのみぎり、役成り早々不案内にて、何心なく添書をもって、松崎へ相廻し候旨、申し出で候につき、元来右等の願書、和田家へ差し出し候筋はこれなく、勿論、同家より右池尻川ざらえ等致し候筋はこれなき儀」と見解を述べ、「不埓(らち)の取り扱い」をした大庄屋久右衛門には「御役御取り上げ、急度(きつと)差控え」を申し渡している。

 しかし、大庄屋がいかに「役成り(就任)早々」とはいえ、全く関係のない小鹿谷(和田氏)に書類を送付するはずはなかろう。当時、和田家の鉄砲足軽のうち、10人が小鹿谷におり、その者が「在中諸役ならびに橋津湊への出役」を務めたとの記録がある。その役務の内容は明らかでないが、和田氏が在中の仕事にかかわっていたことは確かであり、これが大庄屋の判断を狂わせた原因かと思われる。

 このように、和田氏の支配と在方の行政との区分が必ずしも明確でなかったと推察される資料が散見されるのである。