2編 歴史

3章 近世

3節 和田氏と自分政治

5 和田氏支配と在方制度

 

藩の裁決

 「諸事控」は、藩の裁決の模様を次のように述べている。「出火はもとより行倒れ等の類吟味の儀、在方取作廻(とりさくまい)に致し候段、定五郎(和田家幼主)殿御手前御承知の由、 に凶年御年貢不足これある節、御定法の通り在方より取作廻い候義、これまた御承知なされ候旨、甲斐殿(乾氏、家老)御存届けに付、左様相心得申すべき由、其の余の儀は定五郎殿生長まで先々(さきざき)相延置き候様、近江殿・修理殿(共に荒尾氏、家老)御列座にて、甲斐殿より武田又右衛門(郡代)・米村所平(相(あい)役)へ仰せ聞かされ(下略)」と、藩の首脳が協議のうえでこのように決定した。

 すなわち、出火などの吟味及び凶年で年貢が不足する際の措置は在方役所の所管とするが、そのほかのこと(根帳・宗門改めなど)については、当分今までどおり松崎役人の取り扱いとし、和田家当主が成長するまで解決を延ばすという裁定である。

 松田家の記録によれば、この時、松田家も幼主であったので、近親者1名が出頭命令を受けて鳥取に滞在し、解決までに約1か月を要したと記している。また、麻畑の火事については両改め(町方・在方両者が検分すること)と決まったと記しているが、「諸事控」はこのことには触れていない。