第2編 歴史
第3章 近世
弟3節 和田氏と自分政治
5 和田氏支配と在方制度
麻畑の火事
麻畑は後述するように、松崎の松田氏によって開発された土地である。昭和3年(1766)麻畑に火事があった。この火事により麻畑の住人の実態が表面に出たため、松崎の町方役人と在役人、ひいては着座・和田氏と在方役所とのトラブルに発展するのである。以下、松崎の松田昌二家に残る文書と、「諸事控」(『鳥取県史9近世資料』所収)の記述によって、その経過をたどってみる。
(1)6月29日の夜、麻畑の分助の灰部屋(肥料用の灰を貯蔵する部屋)から出火し、2間に3間の掘っ立ての本宅、並びに雪隠(せっちん)(便所)を焼失した。類焼はなかった。松田家に残る「覚」によれば、「(前略)これ(出火)によって小鹿表へ注進致し候所、折節堀宇右衛門殿へは御出府に付、御目附増川百助殿へ相断り(報告)申し候。然る所翌晦(みそか)日右増川氏、御預り(足軽)清兵衛、町年寄立木藤右衛門、目代役菊屋分三郎、麻畑にまかり越され、焼場見分なされ(中略)、御法の由にて分助儀増川百助殿より閉門仰せ付けさせられ候」とある。松田家から小鹿谷の役人に出火のことを報告したところ、翌日御目附が松崎町役人を連れて現場を検分した上で、火元分助に閉門(注)を仰せ付けたのである。「御目附」とあるのは、小鹿谷にいた和田氏の徒士目附である。当時の罪刑は不文律であったが、後に成文化した「律」によれば、失火の罪で閉門(注)の刑が科せられるのは町人に対してのもので、農民に対しては、類焼のないときは1等軽い追込(注)であった。分助を閉門としたのは、松崎町人とみなしての量刑であった。
(2)一方、川上村庄屋は自村分領の麻畑の出火であるから、当然、郡役人(大庄屋・宗旨庄屋)に届け出る義務がある。「諸事控」は、「とにかく仕り候内、松崎役人中まかり越し、焼場吟味しかけ候由相聞え候に付、大庄屋・宗旨庄屋とも不審に存じ奉り、その段倉吉御目附へも申達し、もっとも松崎役人中へ古格(前例)もこれあり、吟味の筋に候やと追々詰刎(つめはね)(談判)仕り候所、(松崎役人も)確かなる儀も相聞え申さざる旨、注進仕り候に付(下略)」と、在方役人の検分の済まぬうちに、松崎役人が先を越して検分した経過を記している。しかし、松崎役人も確実な前例によって執った措置でもなかった。
(注) 一般庶民に適用する罪刑を規定した「律」(『鳥取藩史刑法志』所収)によれば、次のとおりである。
閉門「門を締(しめ)竹を打付、大戸口を締、窓を塞(ふき)ギ、親類縁者を初め一切出入不相成。一家は親子兄弟召仕之者迄も長髪。本家・別家並忌懸り之親類七日慎、長髪」。長髪とは髷(まげ)を結わず、後ろに垂らした状態であろう。
追込「門並大戸口たて寄せ、一家之親子兄弟迄長髪、家別し候は親子ニても構(かまい)無し。但し家内乍レ慎農業御免之事」。差扣(ひかえ)に同じ。