2編 歴史

3章 近世

3節 和田氏と自分政治

4 自分政治

 

鳥取藩士の俸禄

 鳥取藩士の俸禄は、寛文7年(1667)家中物成(知行米)4ツ成(なり)すなわち4割支給が原則となった。禄高200石の者で80石の実収である。しかし、藩の財政が窮迫して、農民からも年貢の増徴ができないとなると、藩士の禄米を減らす方法が採られた。こうして、「御借上げ」・「御借増し」と称して藩士の禄米が次第に減らされてゆく。実質的な減俸に当たる。「藩政年表」(『鳥取藩史』6巻所収)によれば、享保19年(1734)以後、2ツ成(2割支給)を超えて支給されたことはなく、甚だしいときは1ツ成るの年が前後8回、延べ15年間に及んだ。1ツ成とすれば、禄高200石の者の実収は20石である。おおかたの鳥取藩士が困窮したのも当然であろう。禄高5500石の和田氏といえども、それなりの影響があったものと思われる。