第2編 歴史
第3章 近世
弟3節 和田氏と自分政治
3 松崎町の支配体制
陣屋の役人
和田氏は鳥取に常住していたので、陣屋には留守居役がいた。この役を前掲「御用日記」には、「御家臣役」と記している。堀・日比両氏が交替で務めたとみられる。
中興寺にある堀氏の墓地には、慶安元年(1648)に死去した堀喜左右門正則の墓碑があり、堀氏が藩政初期から小鹿谷に居住していたことがうかがわれる。日比氏も正徳5年(1715)以前から小鹿谷にいたことは、前掲「和田信美家譜」(「小鹿谷に常駐した和田組士」の項参照)によって知ることができる。
御家臣役の下に町奉行が1名いて、直接松崎町の行政をつかさどった。藩政初・中期については史料が欠如するが、文政年間(1818〜)以降、山本主記―延原市兵衛―延原忠治郎(双録)―松本茂左衛門などが町奉行を務めている。そのほかの役職及び氏名の判明している者に、
寺社奉行 延原忠治郎(町奉行就任前)
御蔵元 清水某―森下庄蔵―吉田仁兵衛
徒士(かち)目附 増川百助―増川忠左衛門―石原七郎兵衛
などがある。
寺社奉行は、松崎町内の寺社に関すること、及び宗門改めなどに当たったと推定される。なお、龍徳寺は中興寺村地内にあったが、なぜか松崎町分になっていた。古文書(資料編103号など)の上でも確かめられ、また、寺の仏具などにも「河村郡松崎町龍徳寺」と刻んだものがある。
御蔵元は会計係として、和田氏の米銀の出納を担当したのであろう。
徒士目附は、徒士以下の下級家臣及び松崎町人の犯罪などを検察する役である。徒士目附には数名の下奉行が従属し、その指揮に従ったと思われる。
これらの役人は、すべて和田氏の家臣(陪臣)で、小鹿谷(上り屋敷)に居住した。藩政時代の記録を見ると、「小鹿谷御役所」、略して「小鹿役所」などの表現があり、役所が設置してあったことが知られる。
以下に述べる町役人は、町人身分の中から任用された者である。
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