第2編 歴史
第3章 近世
弟3節 和田氏と自分政治
2 和田氏の陣屋
上り屋敷の問題点
上り屋敷について、一つに年貢の問題がある。士分の屋敷に対しては無年貢(士分の屋敷に対し租を徴したのは明治4年以後)であったが、農民所持の田畑・屋敷に対し、年貢を免ぜられたとは考えられない。これに対する貢租は、おそらく松崎町分か、あるいは小鹿谷分に含めて課税されたものと推定される。
上り屋敷には、「上り屋敷庄屋」、「御下庄屋」と称する2名の庄屋があったとみられる。上り屋敷庄屋は、倉吉市定光寺所蔵の延享3年(1746)の勧化(かんげ)簿(寺社の建物などのために寄付を募る趣旨を記した文書)に、「上り屋敷庄屋甚六」と記名されているのが初見である。御下庄屋については、前掲「御用日記」の安政3年(1856)10月11日から13日にわたる次の記事がある。
前後の事情が分からないので、問題の要点を把握することができないが、(一)は、作高帳が大庄屋の手元にあるうちに、御下収納米(上り屋敷の年貢米の意か)を松崎町の収納米と諸込(もろこ)み(一緒にすること)に作高帳を訂正することに同意してほしいと陣屋の役人から松崎の町年寄にあてた依頼状である。本年1年限りのことであり、作高帳を藩に提出した後であればやむを得ないが、まだ大庄屋の手元にあり、どうにでも訂正し得ると、繰り返し説得している。しかし、(二)によれば、松崎町役人は「町内一統為不筋」として反対を貫き通している。
この2つの記事により、「御下収納米」について、
1、御下庄屋
1、(松崎)町庄屋及び町役人
1、小鹿谷村庄屋
が関係したとみられる。このように、上り屋敷の貢納については複数の庄屋が介在したらしいことがうかがわれる。
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