2編 歴史

3章 近世

3節 和田氏と自分政治

1 和田氏

 

小鹿谷に常駐した和田組士

 組士のうち、両荒尾に属する組士は、全員がそれぞれ米子・倉吉に常駐したが、和田・津田氏などの組士は大部分が鳥取に居住し、松崎・八橋には数名が常駐するにすぎなかった。足軽を常駐させるだけあったとする説が一般であるが、次の資料により組士も常駐していたと思われる。

 「因府年表」(『鳥取県史7近世資料』所収)に、

  寛文五年三月朔日

  津田周防元茂へ組士六人御預け。当家へは先祖の時に組士有之が故なり。又和田家より松崎へ、津田家より八橋へ、組士の内を遣置候ことも此時よりり候由。

とあり、寛文5年(1665)から、松崎・八橋に組士が駐在していたことを伝えている。

 また、前掲「和田信美家譜」は、正徳4年(1714)に続いて翌5年、3代藩主池田吉泰が小鹿谷陣屋を視察したことを、次のように記述している。

  同(正徳)五未二月十五日再び小鹿谷陣屋へ成(な)らせられ、組(ヽ)藤井五郎兵衛・中山兵左衛門・門田甚左衛門・林孫兵衛・同藤七、八幡前に拝迎し、家来(ヽヽ)和田勝中・堀久左衛門・日比弥源太及び鳥取より差向使者堀口十五郎も拝迎として同所へ出る

  (後略)。

 「組」とあるのは組士を指し、「家来」は和田氏の家臣である。少なくとも4、5名の組士が小鹿谷に駐在していたことが知られる。しかし、組士が小鹿谷でどのような任務についていたか明らかではない。