2編 歴史

3章 近世

2節 鳥取池田家の成立

4 貢租制度

 

() 貢納

 

年貢未進

 年貢を完納しないことを、年貢未進(みしん)という。未進者に対する措置としては、元禄11年の請免制施行以後は、未進者所持の田畑・家屋・家財などを売り払っても完納させるのを原則とした。完納できない農民は、借り入れなどの手段を講じたようである。

1石2斗余の年貢が不足するため、「受合人」(保証人)2名が、翌年3月に元利そろえて弁済する条件で、村役人に借用を申し込んだものである。天保7年(1836)は、有名な天保の大飢饉(ききん)の前年で、大凶作の年である。この受合証文が今日まで方地の区有文書として保存されていることは、おそらく村役人が年貢不足を融通したこと、それが弁済されずに終わったことを示すものであろう。方地にはこのほかにも同様な受合証文が残っている(資料編73号)。

 村役人は村内の年貢未進を表沙汰(ざた)にしないで、辻借(注)・貸送りの方法で急場をしのいだ。これらの方法は鳥取藩では固く禁止されていたが、ほかに策がないのでしばしばこの方法がとられたようである。

 鳥取藩の法令によれば、未進者があったときは、5人組の共同責任によって弁償させた。5人組内で償い得ないときは、村かつぎと称して1村に割り当てて弁償させたという。こうして5人組又は村の住民に迷惑をかけた者は、追放処分にされた。町域内の村落において、未進者として追放された記録はないが、松崎町において文政11年(1828)11月、年貢上納が難しい3人が「たひしん(退身)ニ付相届申上」げた上、「家財をきも人(世話役)ニ申付売払」ったとの記録がある(「免札締方町庄屋兼役中扣(ひかえ)日記」松崎・足羽愛輔所蔵)。年貢が払えないため退身(逃亡)したので、残された家財を処分して年貢に充てたのである。また、同時に6人の者が年貢不上納により、「手錠(てじょう)此年中、正月廿四日御免、跡は閉門二廻り(二四日間カ)位仰付けさせられ候事」の記事もある。

  (注) 辻借=年貢不足のとき、1村の不足辻(合計)を、庄屋はじめ連印の証書で、翌年取り立てて返納する旨の文言を入れて、金子を借用し年貢不足をひそかに償うこと。

      貸送り=村に年貢未進者があるのを届け出ず、庄屋がひそかに立て替えたり、あるいは金主から借り替えて年貢不足を償い、翌年取り立てることをいう。