第2編 歴史
第3章 近世
第2節 鳥取池田家の成立
4 貢租制度
(4) 貢納
給人と株庄屋
給人の知行米の世話をする者を、株庄屋という。村庄屋が兼任する場合が多かったといわれる。前掲「音田家覚書」に、給人と株庄屋についての記事がある。その部分を引用する。
一御株庄屋跡役伜(せがれ)幸三郎へ仰せ付けさせられ候は、寛政八(一七九六)丙辰十月二十八日なり、御役人田中誰右衛門様、石原正助様より御書を以って仰せ付けさせられ候。幸三郎二十三才、御請祝儀として円城寺花生(はないけ)一口、大熨斗(のし)相添え献上仕り候処、御賞美遊ばせられ、御念の入らせられ候御挨拶(あいさつ)御返書なり。又幸三郎儀まかり出で候はば、旧例の通り御目見え、御上下(裃)(かみしも)御拝領、御料理仰せ付けさせらるべき御返書なり。千万々有りがたき仕合わせに存じ奉り候。(下略)
筆録者音田弥十郎は、22年間株庄屋を務めたあと、伜幸三郎と交代している。幸三郎は、19歳のころから村庄屋を務めていたから、株庄屋と兼任である。同書には給人から金子の借用申し込みを受けたことも記録している。
株庄屋は、給人の代理として給所米を取り立て、給人の希望により、現米のまま、あるいは換金して給人に納めた。
「諸事控」の安永7年(1778)10月6日の項(『鳥取県史9近世資料』所収)に、
一高橋三郎兵衛知行所河村郡藤津村ニて本米四拾石懸物共、同郡泊古酒屋藤七方へ納度旨申来ニ付、其段御郡ヘ申遣ス。
とある。高橋三郎兵衛が、知行所である藤津村で受ける本米40石及び懸り物(付加税)を含めて、泊村古酒屋藤七に引き渡してもらいたい旨を申し出たので、鳥取藩在御用場では郡の責任者へこの旨を申し送ったのである。給人が知行米の受け取り方法を変更するときは、在御用場に届け出るよう規定されていた。そのために、このような記事が「諸事控」に数多く見える。