第2編 歴史
第3章 近世
第2節 鳥取池田家の成立
4 貢租制度
(3) 請免制
年貢免状の解説
(1) @の畑高は、Cの高の中に畑の収穫高がこれだけあったことを示す。松崎は耕地が少なく、また、ほとんどが畑であったことが分かる。
(2) 村高の項で、元禄4年以降は「朱高」の語を用いたという『鳥取藩史』の説をあげたが、Aでは、同十年にもなって、まだ「高」と表示している。この時期には、「朱高」の用語で統一されていなかったと思われる。しかし、「高」の値は「朱高表」にあげたものと同一である。
和田式部は松崎を給地(知行所)としていた給人である。松崎を自分政治の地として領有すると同時に、給地にも指定されていた。したがって、松崎が納める年貢は和田氏の禄
米の一部であった。
(3) BはAの高の決定後に新しく切り開かれた耕地の高である。AとBを加えたCが、この年の課税対象高となる。
(4) 『鳥取藩史民政志』によれば、新開の田畑は3年間無税、4年目からその村の下田の斗代により3ツ免で貢納させ、以後年貢免状が出る度に斗代・免を徐々に上げ、最終的にはその村の本免が課せられるようになる。Dの古地分とは、Aの高と、Bの開高のうち本免を課せられるに至った一部の新開地分の合計である。これには松崎の本免(5ツ9分)で課税され、残りの開高Fには4ツ7分の低い免が課せられた。EとGの合計がHである。
(5) IとJは貢租額から控除される分。Iは本来本免を課せられるはずの高6斗6升5合の耕地に対する物成が何らかの理由で免除された。Jは松崎に置かれた御茶屋の経費である。御茶屋は領内に16か所あり、藩主の宿泊、滞在、遊覧の用に供したといわれるが、松崎の御茶屋を藩主が利用した記録はない。
(6) Kが実際に納める物成(本年貢)である。
(7) この空欄は、秋の収穫時において、年貢の修正を要する場合に使用する予備欄であろう。土免制による年貢免状に見られる書式で、この免状は土免制によるものとみることも可能である。
(8) Mの夫口(ぶく)米は付加税である。藩政後期の年貢免状には、夫口糠藁縄(ぬかわらなわ)代と記入してある。藩政初期では糠藁縄代は現物で納入したらしいが、後には米納に改められた。夫米は夫役を徴収する代わりに上納させる米、口米は租税取り立て役人の役料に充てられるもの、糠藁縄代は馬の飼育料に充てられるものである。この5種の付加税は、合計で物成の0.09075に相当した。Kにこの率を掛けると2石6斗9升9合となる。量は記入してないが、これだけの付加税が必要であった。
(9) Nの池役については、「雑税と課役」の項で後述する。
(10) Oの文言は奥書という。出作とは松崎町の田畑を耕作している他村の者をいう。村(又は町)役人だけで決めず、本百姓はもちろん、小百姓・出作も加え皆で相談し、納得の上で年貢を割り当てなければならないと説いている。村(又は町)に年貢完納の責任を負わせているのである。
野口治兵衛は、「元禄7年組帳」(『鳥取藩史禄制志』所収)によれば、禄高170石の藩士で、郡奉行の職にあったとみられる。