第2編 歴史
第3章 近世
第2節 鳥取池田家の成立
3 田畑の実状
久見村の田の実態
ここに、久見村の一部であるが、1筆ごとの田の面積・石高について、藩政時代と明治7・8年の調査結果を比較できる資料がある(「天保4年御図帳」「河村郡松崎・中興寺・久見・中尾・山辺田地地祖改正貢租石代上納仕出帳」松崎・足羽愛輔所蔵)。これにより表18を作成した。@とAは反別、CとDは石高についての比較である。また、EFGには、藩政時代の貢租及び地主・小作の取り分を示した。
初行の字「六反田」の中田について解説する。藩政時代は2反5畝10歩半と登録された田が、明治の測量によると3反4畝16歩と膨れた。前述のとおり、藩政時代には1反につき2畝(2割に相当)の余裕が認められていたが、この田の場合は3割6分の余裕があったわけである(B欄)。したがって、石高も藩政時代は4石3斗余(C欄)の査定であるが、明治の調査では6石3斗近く(D欄)になり、貢租及び地主の取り分を差し引いても、小作の手元には2石余り(G欄)が残った計算になる。
久見村の門ノ目・小五郎・桜ケ坪などは八丁畷(なわて)の東西に広がる水田地帯で、古代条里制が施行されたとみられる所である。4隣が田で囲まれ、開き添えなどはできない場所であるにもかかわらず、平均3割6分余の余裕があったことが知られる。
『荻原直正先生遺稿集』は、藩政時代1畝26歩とされた田が明治の測量によって6畝28歩に、4畝26歩余の田が1反6畝余に実測された例があることを指摘している。
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