第2編 歴史
第3章 近世
第2節 鳥取池田家の成立
1 在方制度
倉吉往来
幹線である山陰道は泊村泊から原―宇谷―羽合町宇野―橋津―長瀬―田後と海岸線を通っていた。倉吉から泊方面に行くには、竹田川を舟で渡り、山根―知坂峠―長和田―松崎を経由し、泊村原で山陰道に合した。この経路を倉吉往来と呼んだ。
享保丙午(11年)(1726)5月の「因伯地理志」(佐藤長通著、県立米子図書館所蔵)は、因伯の主要道路について、その里程・道幅などを調査している。倉吉市上井から泊村原までの間は、次のとおりである。
上井村より長�秩i和)田に到(いた)る30町20間、街道2間、この中2町10間は坂なり、
長和田村より野花尾村に到る7町30間、街道2間半有り、小川広さ3間、橋有るなり、橋より上1町50間徒渉すべし、この中3町小坂なり、
野花尾村より引地村に到る8町、街道1間半、
引地村より松崎宿に到る11町、小鹿川広さ4間、水深1尺、洪水則上(ママ)可3町徒渉すべし、
松崎宿より原村に到る1里21町、街道2間、
(読み下し)
この経路は、急な知坂峠を越える不便があったので、後に倉吉から上井―福庭―清谷を経由し、田後で山陰道に合流する道が通じた。これも倉吉往来と呼ばれる。
なお、江戸時代には街道の1里ごとに土を盛り、里程の目標とした。一里塚がこれである。塚には多くの場合、榎(えのき)・松を植えたといわれる。鳥取東郷農協舎人支所の東200メートルの辺りに、字「一里塚」の地名がみられる(藤津地内)。一里塚のあった名残であろう。また、野花から長和田に越える坂道(北山古墳の下)の中ほどに一里塚があったと伝承する。現在はシイの老木が茂っている。ここから藤津の字「一里塚」まで、県道で測って約4キロメートル(1里)あり、妥当な位置である。