2編 歴史

3章 近世

2節 鳥取池田家の成立

1 在方制度

 

村送り

 公用の手紙・荷物などの送達は、飛脚によるほか、村送りの制度があった。幹道沿いの村から村へ継送する制度である。「諸事控」の寛保2年(1742)正月の記録(『鳥取県史9近世資料』所収)によれば、「山根・門田両村え大庄屋有之、右両村之間ニ佐美村人少ニ有之候処、御用多、因茲(ここにより)御郡掛リニシテ米一石宛遣サレ(後略)」とある。当時、河村郡大庄屋は山根村(倉吉市山根)甚蔵と門田村兵吉であった。両者の間では、頻繁に連絡を要する事項があったのであろう。佐美村は両村間の唯一の、しかも、人数の少ない村であった。そのため、佐美村は使役の負担が大きかったので、その代償として郡費をもって毎年米1石ずつ与えられていたのである。

 同じく、天保15年(1844)8月23日の記録(『鳥取県史12近世資料』所収)に、

  1、松崎御制札五枚出来に付、村送りを以って同所へ相廻し候様、取計らいの儀、豊前殿(和田豊前)家臣より懸合い越し候に付、先例取調べの上、右送り出しの儀取計い相成り難き旨、返答に及び置き候処、左の御書附、御家老中より郡代へ相渡され候に付、その段家臣へ懸合い置き候処、猶又左の通り申し越し候に付、此度限り送り遣し候事(後略)、

の記事がある。在方役所では、松崎までの村送りによる制札の輸送を前例がないとして、いったんは断ったが、家老から郡代に申し入れがあったので、この度に限り応じたというのである。

 本来、制札の調製・輸送などの業務は、在方役所の所管であったと思われる。しかし、右の記事の制札は和田氏が調製したもののようである。すなわち、この制札は和田氏の私的なものであったと解される。自分政治を許された大身(高禄)の家臣は、領地内に家法を掲出する場合があったことが知られている(『鳥取県史3近世政治』)。

 在方役所が村送りにより輸送することを断ったのは、それが私的な制札であったためであろう。村送りは公用物件を輸送する制度であった。