2編 歴史

3章 近世

2節 鳥取池田家の成立

1 在方制度

 

制札場

 藩政時代には、藩の法令などを農民・町人に周知するため、領内所々に制札場を設けて、法令を掲出した。寛永9年(1632)には、領内26か所に設けられ、うち河村郡では、泊・松崎の2か所であった。のち増設されて、湊村(のちの橋津)・長瀬・穴鴨が加わり5か所となった。

 制札場が松崎のどの辺りに置かれたか明らかではないが、明治18年、松崎宿外12ヶ村戸長武中吉蔵が編集して、鳥取県令山田信道に進達した「伯耆国河村郡松崎宿誌」(鳥取県立図書館所蔵)には、次の記事がある。

  四、里程

    鳥取県庁より西方9里26町、所轄郡役所(倉吉)より東北2里22町30間、泊宿へ2里5間、但本宿字仲町掲示場を以て元標となす。

 掲示場の前身を制札場と考えると、制札場は仲町(松崎3区)にあったとみられる。

 松崎の町年寄が役中諸事を筆録した「御用日記」の安政4年(1857)2月の項に「御制札場屋根大破に及び候に付、御修覆願い上げ奉り候」との記事があり、制札場は屋根付きであったことが知られる。

 次に制札の文言(もんごん)を例示する。

  1、諸国在々所々におゐて新銭鋳候事、堅く停止也。若し相隠し鋳出す輩あらバ、申出すべし。仮令(たとえ)同類たりと云とも、其料(とが)をゆるし、御褒美下さるべし。自然脇より訴人これあるにおいては、本人は申に及ばず、5人組同罪に行ふべし。 びに其所の者迄も曲事(くせごと)(法にそむくこと)たるべきものなり

寛永18年(1641)2月3日

  1、切支丹宗門累年御制禁たり自然不審成者これあら申出すべし御褒美として

     ばてれん(司祭)の訴人銀5百枚

     いるまん(宣教師)の訴人同3百枚

     立帰り者の訴人右同断

     同宿 びに宗門の訴人銀百枚

  右の通りこれあるべし。たとひ同宿宗門の内たりといふとも、訴人に出る品に寄、銀5百枚下さるべし。隠し置、他所より届に於てハ其所の名主 びに5人組まで一類ともに厳科に処さるべきものなり。仍て下知件の如し。

    天和2年5月日(1682)     奉行

 

  1、商売人在々百姓へ借銀借米利息の儀、御国替の砌より定めらる如く、今以銀子ハ2割、米は3割たるべし。 びに米を銀に直し月借等、此以後一切これを停止す。此旨相背くにおいては、取候者も出し候者も双方厳科をこうむるべきものなり。

    寛文4年11月朔日

これらの制札の文言は、前掲「因府録」によった。