2編 歴史

3章 近世

2節 鳥取池田家の成立

1 在方制度

 

組頭

組頭(くみがしら)は5人組の長である。鳥取藩において、組頭の制度が設けられたのは享保7年(1722)といわれる(『鳥取藩史職制志』)。

 5人組とは、江戸時代に近隣の5軒が1組に編成された連帯責任の組織である。5軒を1組とするのが原則であるが、鳥取藩では、村の実状によって3軒ないし7軒までは1組としてもよいが、8軒以上は2組にするよう指示している(「明治2年8月5人組御締合御趣意」別所・西田陽二所蔵)。組は固定したものではなく、組み替えも行われたようである。

 文化10年(1813)当時の町域内各村の5人組組頭の数は、次のとおりである。

 

 松崎を別とすれば、方地の6人が最も多く、漆原・藤津・長和田・門田・長江の5人が続く。福永については記入していない。おそらく、1村1組で、庄屋が組頭の役務を兼ねていたのであろう。文化元年(1804)ごろの記録と思われる「再改細見村尽し」によれば、当時の福永村のかまど数は3軒であった。

 村には年行司の役があった。年行司は組頭のうちの1名が選ばれて、庄屋と組頭の間の連絡などに当たる役である。その役名からみて、1年交替であったと思われる。