第2編 歴史
第3章 近世
第2節 鳥取池田家の成立
鳥取藩の統治形態と郷土
光政と同族であった備前岡山藩主池田忠雄が31歳で死去したとき、嗣子光仲(幼名勝五郎)はわずか3歳であった。幕府は「備前の国は西国の要枢(ようすう)の地(重要な場所)なれば御幼主様にては如何也」(「因府録」(注))として、因伯への国替えを命じた。
こうして寛永9年(1632)8月、岡山から鳥取に移って以来、光仲を始祖とする鳥取池田家の支配が明治維新まで続くことになる。
藩政時代では、現在の東郷町域のうち「松崎」と、その周辺の村々とでは統治の形態が違っていた。松崎は、着座家(鳥取池田家の家老職に就任し得る家柄)和田氏の自分政治の地であった。自分政治について『鳥取藩史職制志』は、「着座席の内数家に対し、御預の土地人民有り。藩は此等土地人民を直接統馭(とうぎょ)(まとめて治めること)せず、各領主をして管理せしむ。之を自分政治と云う。両荒尾に対する米子・倉吉。和田の松崎。津田の八橋。鵜殿の浦留に於けるが如し」と説明している。このように東郷町域内では、松崎(小鹿谷の一部を含む、後述)が自分政治の地として和田氏の管轄に属し、その他の集落(村)は次に述べるように、在御用場の管轄であった。
藩政時代には、「在」の語がよく使われる。「在」とは、在所・在郷の意味で、鳥取藩では、鳥取・米子・倉吉・松崎・八橋などの「町」を除いた集落をすべて「在」とみなしている。
自分政治の松崎については、節を改めて述べる。
(注)藩政時代中ごろ、鳥取藩士・佐藤長健が編さんした記録である。内容は、鳥取築城の由来、国主の変遷から地理・風土・典礼・儀式・法規・吏務・藩君の美行・嘉言・諸臣の遺聞逸話にまで及んでいる(『鳥取藩史藩士列伝』)。『鳥取県史6近世資料』に収録されている。