第2編 歴史
第3章 近世
第1節 近世初期の時代
大坂冬の陣と南条氏
山田五郎兵衛が久米・河村両郡を統治しているころ、慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こった。関ヶ原の戦い後、浪人していた南条元忠は、父元続以来の豊臣氏の恩義に報いるため、大阪城に入った。一族・旧臣が多数従ったと思われる。
大坂冬の陣の東西両軍配備概況を記入した『大阪城之旧図』(大正15年、大阪市浦上正三発行)には、城方(西軍)として次の3名の南条氏がみえる。
大阪城西側 平野橋口守備 南条中務能房 3千人
騎馬2百騎大筒20挺
小筒3百挺弓3百張
〃 東側守備 南条外記 5百人
〃 北東側鴫野口付近守備 南条河内守 5百人
当時の南条氏の当主は、南条系図によれば、中務大輔元忠と記しているので、右に挙げた3名はいずれも符合しない。しかし、「中務」が共通する点では、南条中務能房を元忠に比定できよう。なお、『戦国人名事典』(吉川弘文館刊)などには、元忠の名はなく、「羽衣石城南条忠成」と記す。忠成と元忠は同一人であろう。
大坂城内における元忠の行動について、説が分かれる。
(1)元忠は旧知の間柄であった家康側の部将藤堂高虎から、家康側に味方するよう誘いの矢文(やぶみ)を受けた。しかし、元忠はそのことを城内の真田幸村に報告し、その指示に従って内通(裏切り)を装い、寄せ手を城際までおびき寄せて討ち取ったとする説(『厭蝕太平楽記』)。
(2)元忠は藤堂高虎の誘いに乗り、寄せ手を城中に導き入れようとしたことが発覚して、家来50余人と共に処刑されたとする説(『難波戦記』『伯耆民談記』)。
(3)(2)の行動をとった南条氏は、羽衣石南条氏ではなく、筑後(福岡県)の南条氏であったとする説(『野史』)。
その後の研究者によれば、築後に南条城を名乗る大名がいたことは確認できないようである(伊達楚山『伯耆東伯郡羽衣石城主南条(ママ)史』)。(1)・(2)のいずれにせよ、南条元忠が大坂城において陣没したことは確実であろう。倉吉市大谷の佐々木博美家に伝わる系図に、
吉高 慶長六年巳生、十四歳冬大坂陳(陣)南条順(したがい)入城、元和元年夏、大坂落城之後、密ニ南条遺骨持ッテ帰国シ、定光寺ニ収メ、跡隠レ民間ニ下ル、天和二年死、
と、佐々木吉高が南条氏の遺骨を持ち帰り、定光寺に埋葬したことを記録している。法名を南星院殿意安元宅大居士という(『伯耆民談記』)。
倉吉市和田の定光寺には、元続・元秋・元忠の墓と伝えられる3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
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