2編 歴史

3章 近世

1節 近世初期の時代

 

中村忠一の伯耆一円支配

 関ヶ原の戦いで徳川家康が大勝し、徳川政権が確立すると、家康は直ちに諸大名の配置転換を行い、自らの支配体制の整備に着手した。伯耆西三郡を領有していた吉川氏は、毛利氏の領地削減に伴い、周防国(山口県)岩国に移され、一方、南条氏の領有していた伯耆の東三郡は没収された。代わって伯耆一国には駿河(静岡県)にあった中村忠一が転封され、慶長6年(1601)米子城に入った。その石高は17万5000石といわれる。このとき、中村氏の一族である河毛備後守は8500石を領して松崎城に城居した。次に中村氏並びに河毛氏支配にかかわる2、3の資料を挙げておく。

 (1)松崎の西向寺は河毛氏の菩提寺として建立されたことが、次の京都・知恩院の記録「蓮門精舎旧詞」によって知られる。

西向寺  知恩院末 伯州河村郡松崎村瑞雲山西向寺起立は往昔、伯州の大守中村式部殿一族河毛備後守殿菩提寺に之を建立す(後略)

(『鳥取県史2中世』所収)

しかし、後に述べるように河毛氏が処罰を受けたためか、西向寺にはその伝承が伝わらず、位牌(いはい)も残っていない。

(2)松崎の法林寺に「河毛のツツジの太鼓」と伝承された大太鼓があった。相当以前に滅失したので正確な寸法は分からないが、長さ1メートル以上、胴の直径0.6メートル以上はあり、材質はケヤキであったようである(法林寺・上杉美代子談)。「ツツジの太鼓」と称した由来は不明であるが、同寺の縁起などを記した「蓮華会生記」に、「第六世元誓、コノ時城主河毛備後守城内時ノ太鼓、慶長十八年落城ノ砌寄附之。則鼓内年号天正二年九月日ト有之候」とある。「時ノ太鼓」とは、時刻を知らせる太鼓の意であろう。

(3)鳥取県立博物館蔵「東郷八幡宮古文書」によれば、中村氏は小鹿谷の八幡宮に社領を寄進している(資料編14号)。年未詳であるが、慶長6年のものと推定される。

その後、中村氏は家中に騒動があってまとまりを欠き家康の機嫌を損じたため、慶長14年(1609)忠一が20歳で急死すると、跡継ぎがないことを理由に、取りつぶしになった。この時、中村氏の老臣依藤半右衛門・中村伊豆守及び河毛備後守の3名が財宝を隠匿していたことが発覚し、摘発された。河毛氏は松崎の領主であったから、その遺留財産を納めた蔵(闕所蔵(けっしょぐら))が松崎にあったと伝えられる(『伯耆民談記』)が、位置は不明である。中村氏の伯耆領有はわずか8年間であった。

図30 松崎の道路・屋敷割り図
「天保15年松崎町分田畑全図」(鳥取市・伊藤泰雄所蔵)及び「明治5年松崎宿田畑地続字限絵図」 (町役場所蔵)により作成。

 

松崎の本通りの仲町(3区)と新町(5区)の境には、   の形をした道路の屈曲がみられる。ふつう、城下町は城を防衛する必要から主要道路は多く屈曲しているといわれる。松崎の道づくり・屋敷割りがいつごろ行われたかは不明であるが、少なくとも河毛氏の時代までには現在のような形をとっていたとみられる。河毛氏が去った以後、松崎に城居した者はいない。