第2編 歴史
第1章 原始・古代
第5節 奈良・平安時代
2 条里制と郷土
舎人地区の条里
長江や久見・中興寺の周辺に比べると、舎人地区の条里の復元は困難である。関係字名も、方地の字「三反田」、白石の字「三反田」、野方の字「中坪」、「北ヶ坪」、藤津の字「五反田」、北福の字「柿ヶ坪」が検出されるくらいである。しかし、前述した方地字「下田」の南限線をはじめ、野方の字「北ヶ坪」、「五久」、「北田」や、方地の字「太イ田」、「下田」の東限線、同じく方地の字「二ノ小林」、「竹ノ下」、「寺縄手」、「太イ田」の北限線などが、東西あるいは南北に走っている点などから、条里制のこん跡をわずかに見いだすことができる。こうした碁盤状の小字の境界線は、漆原や北福でも見受けられる。方格地割に近いものでは、野方の字「中坪」、「柳」、白石の字「馬淵」などがある。なお、『気高町誌』は、「柿ヶ坪」の地名について、「柿」を「シ」と読み、「四ノ坪」の転訛と考えられるとしている。北福の字「柿ヶ坪」にも同じことがいえるかもしれない。また、藤津には字「五反田」に隣接して字「八津(やつ)」、「重(じゅう)六」の地名が残っている。それぞれ「八が坪」、「一六が坪」に比定すれば、坪付けの名残と想定することもできる。藤津字「上坪」の北限線はほぼ東西に走る。松崎幼稚園前の道路から北に約540メートル(約5坪分相当)の距離にある。
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