第2編 歴史

第1章 原始・古代

第5節 奈良・平安時代

 

2 条里制と郷土

長江の条里

 長江の北側部分、すなわち羽合平野と地続きの部分では、方格地割の小字が並んでいる。数詞を冠した小字に「五ノ坪」、「六ノ坪」、「八反田」、「三反田」、「五反田」、「六反田」の6か所、また「隈ヶ坪」の坪名も見られる。長江には天保14年(1843)の「長江村田畑地続全図」も伝えられているが、小字面積の測定は明治23年の「大字長江村絵図」(町役場所蔵)を基にした。これによると、方格地割に近い小字の平均面積は、11,847平方メートル、1辺の長さの平均は東西108メートル、南北110メートルとなった。我が国で標準的とされる坪の面積11,881平方メートル、坪の1辺109メートルにほぼ符合する。

 昭和30年代にこの一帯はほ場整備が実施され、昔の区画を見ることはできないが、条里制の坪の区分は、奈良時代から昭和の前半まで、ほとんど変わることなく、綿々と受け継がれていたと推定される。

 田の「畔」の区分けは、長江の場合、ほとんどが長地型である。『地誌考』によれば、長地型の地割方向は、羽合条里の場合、土地の傾斜方向と直角な方向をとるものが多く、この地割は傾斜面を水田化する際に労働力を節約できる方法であったとしている。長江をはじめ、町内で見られる長地型の地割方向と傾斜面との関連は解明できなかった。

 長江のうち、字「八反田」を挟んで字「五ノ坪」、「六ノ坪」があるが、条里制施行当時は両者が隣接し、連続した坪付番号を示していたと思われる。これら3つの小字の北限線は、先に掲げた町内の条里想定図の東西線(実線)と重なる。現在の町道「長江浅津線」である。

 長江には、このほか字「大杭」、「石建」の小字名が見られる。『地誌考』などは、この場所に杭や石を立てて条里の地割を設定したであろうと推定している。

 また、長江条里の延長と思われるものが長和田にある。長和田字「目見橋」、「植木畷(なわて)」、「六反田」の境界線は、ほぼ東西又は南北に直交し、条里制遺構と認められる。字「目見橋」などの北限線は、花見小学校前から門田に至る道路(通称「植木縄手」)と重なる。測地のための基本となる道であろう。

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