第2編 歴史
第1章 原始・古代
第5節 奈良・平安時代
2 条里制と郷土
東郷湖周辺の条里遺構
東郷湖周辺の条里遺構では、特に羽合平野が顕著である。整然と並んだ方格地割が小字図などからもうかがわれ、条里制の名残を伝えている。しかも、二・三・四ノ坪などの坪名を付した小字名26か所も残存している。これを基にした条里の復元図が『鳥取県史』などに示されているが、それによると羽合平野の場合、条里の地割方向は、ほぼ真北を向き、坪名の付け方は西北隅から東に進み、最後は西南隅で終わる千鳥式となっている。こうした羽合平野に見られる条里制の一部が町内の長江に見られ、その延長が、久見、方地などにも及んでいるという(後述)。弥生時代の項でも述べたように、町内の河川流域では沖積平野が発達し、早くから水田化されていたとみられ、条里の施行対象になったものと思われる。なお、羽合平野の条里制については、『羽合町史前編』を参照されたい。
東郷湖周辺の条里制は、その区画立案に当たって何を観測目標にしたのか。『地誌考』などは、大平山のほか、別所の南方の通称「藤峯」、倉吉市大原の南方の標高232メートルの山のそれぞれの頂上などを利用したものと推定している。これらの研究結果を参考にしながら、昭和37年5月撮影の航空写真上に町域内の条里遺構を想定してみた(久見・中興寺周辺は口絵に掲載)。この結果、田畑橋から松崎幼稚園に至る直線道路、通称「八丁縄手」(縄手とは、田の中のまっすぐな道の意)は、里の東西をほぼ2等分する区画線となる。また、東郷橋近くから「八丁縄手」と交差して東郷中学校に向かう通称「通学道路」、長江の町道「長江浅津線」の一部、山陰線・方地踏切から方地の集落に通じる道路(方地字「下田」の南限線)などが、条里の区画線と重なって浮かび上がる。これらは、いずれも条里制に関連した遺構とみることができる。
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