第2編 歴史
第1章 原始・古代
第5節 奈良・平安時代
1 律令制下の郷土
山陰道のルート
律令制国家では、都と地方を駅馬で迅速に結びつけるための交通制度、すなわち駅制が整備された。因伯においても、各地に駅が設けられ、駅馬で連絡する駅路が敷かれた。数ある道路のなかでも、駅路は各国の国府を結びつける幹線道路をいう。因伯の駅路である山陰道について触れておきたい。
『延喜式』(律令の施行細則。10世紀の中ごろ施行された)によると、伯耆には笏賀(泊村石脇)、松原(倉吉市巌城)、清水(東伯町八橋)、和奈(名和町)、相見(会見町)の5駅があったことが知られる。各駅には、中央との緊急連絡や公文書の搬送などに使われた駅馬が5匹、河村郡など伯耆の5郡には国司の領内視察などに使われる伝馬が5匹ずつ置かれたとされている(『鳥取県史』)。
笏賀から松原に至るルートについて、従来の説は石脇―原―宇谷―宇野―橋津(又は南谷)―長瀬のルートを想定していた。しかし近年、小字地名や遺構などから、古代山陰道のルートを推定する研究が進められ、海岸線を通るとする前記の説に対して、原―野方―久見(又は中興寺)のルートが挙げられている。駅路、すなわち律令制下の国府・郡衙などを結ぶ官道は、その軍事的・政治的な性格から、原則として最短距離を通ったといわれる。遠回りする道は採らず、山を越えても近い道を選んだとされるのである。また、律令制以前に建てられた各地の寺院を通ったであろうと考えられている。前述したように、羽合平野は古来から洪水頻発地帯であり、郡衙不適地との指摘があること、野方・久見にはそれぞれ古廃寺あるいは郡衙の跡地とみられる要地があることにより、駅路が東郷町側のルートを通った可能性は大きい。
古くから利用された山越えの道などを参考にしながら、東郷町内の山陰道のルートを推定してみた。このうち、町内から倉吉市に通ずるルートは、埴見の奥を越えて、大原廃寺のあった同市大原へ達したと推定した。このほか、地坂峠を越えるルート、あるいは前述した羽合町の字「国相」を通過し、大平山の北側をう回して倉吉市に入ったとする説もある。県中部の古代山陰ルートは、現在研究が進められている段階であるが、倉吉市駄経寺の大御堂廃寺から市内本通りを通って国府の国庁に至るルート、また、同市下福田のはずれから東伯町槻下の斉尾(さいのお)廃寺に至るルートは、いずれもほぼ一直線の道路が見いだされるとする説もある。
![]() 図11 町内の山陰道推定ルート |