第2編 歴史
第1章 原始・古代
第5節 奈良・平安時代
1 律令制下の郷土
伯耆国庁と国司
一国の政治・経済・文化の中心地であった国府は、伯耆の場合、倉吉市国府(こう)に置かれた。国府川を望む、標高40メートルの高台にあり、官営寺院である伯耆国分寺・国分尼寺の跡と近接している。近年の発掘調査で、国府の中核・国庁(政庁)は、東西約81メートル、南北約104メートルの内郭(素堀溝)の中にあり、正殿を中心にして南北に前殿と後殿、東西に両脇殿を配置してあったとみられている。また、内郭の北と西に、それぞれ北方官衙(が)・西方官衙と思われる建物群の遺構が検出された。異物のなかには、「川村」、「久」、「厨」、「国」などの文字が見える墨書土器(土師器)も出土している。伯耆国庁の調査結果は、倉吉市教育委員会発刊の『伯耆国庁趾発掘調査概報第五・六次』を参照されたい。
国庁には、中央から任命された国司が赴任して、郡司(後述)を通じて地方政治の運営に当たった。国司には、職分(しきぶ)田(官職に対して賜う田)など経済的特権が与えられた。律令制官僚にとって、国司に任用されることは魅力的なものであったが、その特権が、やがて権限を超えた横暴、収奪を招く原因になったといわれる(『鳥取県史』)。因伯の歴史国司のなかには、因幡の大伴家持、伯耆の山上憶良など、万葉歌人の名も見える。伯耆は、因幡に比べて飢饉(ききん)が多かったといわれ、山上憶良の「貧窮問答歌」は、その伯耆国司時代の体験が基になっていたとも考えられる。