第2編 歴史

第1章 原始・古代

第4節 古墳時代

2 町内の概観

 

首長権の移動

 その後、東郷湖周辺では馬ノ山2号墳(4世紀後半)、宮内の狐塚古墳(5世紀前半)、野花の北山1号墳(同)の順序で、大型の前方後円墳が造られていく(なお、一説に馬ノ山2号墳の築造は4号墳より先行するとする)。地域の首長権を握った者が、東郷湖を巡って移動したことを物語るものかもしれない。当時、大和政権も絶対的な権力を持って各地の首長を支配していたわけでもなく、首長の交代ごとに同盟関係の確認、すなわち前方後円墳の築造が必要であったという(山陰考古学研究所『山陰の前期古墳文化の研究T』)。その意味で、5世紀前半に築かれた山陰地方で最大規模をもつ北山1号墳は、東郷湖周辺の豪族が伯耆一円を支配した勢力のピークを示すものといえよう。

 同書では更に、5世紀が大和政権の「倭の五王」の時代であったことから、当時行われた朝鮮半島の侵略に、宮内・狐塚古墳及び北山1号墳の被葬者が参加した可能性が強いと推論している。日本海側にある地理的条件から朝鮮などと交易したり、さらに大和政権の軍事行動へ積極的に対応したりして、経済的・政治的な実力を増し、その首長権はより強力なものになったとしている。北山1号墳からは、後述するように盾・短甲・錣(しころ)などの武具をかたどった埴輪の破片が出土している。

 なお、4号墳に始まった馬ノ山古墳群には、後期のものと推定される5、11号墳(いずれも前方後円墳)がある。馬ノ山には、古墳時代全般を通じて前方後円墳が築かれているのである。首長権が東郷湖の南側に移動したあとも、4号墳の被葬者の血を引く豪族が、数百年の長い間、馬ノ山周辺で勢力を維持したものであろう。

 

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