第2編 歴史
第1章 原始・古代
第4節 古墳時代
2 町内の概観
前方後円墳と地方豪族
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての、過渡期の墳墓とみられるものが各地で発見されている。その一つである「四隈突出型墳丘墓」は、近年、県内でも倉吉市の阿弥大寺地区、鳥取市の桂見地区などで相次いで発見された。これらは、少量の盛り土をもつ点、わずかながら副葬品が見られる点、突出部が重要な祭事の場所に使われたと思われる点など、古墳らしい萠芽もみられるが、いずれも石室を持たず、遺体を木棺に入れて埋めただけの土壙墓であり、弥生時代後期の墓に位置づけられるものである。
このような古墳の前段階と推定される弥生時代後期の墳墓は、今のところ、東郷湖周辺ではほとんど知られていない。そうしたなかにあって、4世紀に入ってから、東郷湖の北側・馬ノ山に突如として巨大な馬ノ山4号墳(前方後円墳)が出現する。
小林行雄の「古墳文化の形成」(『岩波講座日本史1原始および古代』所収)によると、「4世紀の古墳は、人口の造山によって墳形を築成するにいたった5世紀の古墳にはおよばない。しかし、自然の山丘を利用するにあたっては、あらかじめ、ある程度の規模を持った墳丘をつくることができる地形が選定されたので、全長100メートルを超えるものが、より小さくつくるような先行の時期をもたずに、にわかにあらわれることになった」という。恐らく、弥生時代から共同体の司祭者の任務を持っていた東郷湖周辺の首長が、稲作あるいは海運交易(後述)などによって富を蓄積していたのであろう。3世紀末から畿内を中心にした瀬戸内・北九州など当時の政治的先進地で、豊富な副葬品を納めた巨大な墓が造られ始めるが、それとほぼ足並みをそろえるように、東郷湖の周辺で突如大型の前方後円墳が築かれたとみられるのである。
地方における大型古墳の築造は、大和朝廷を中心にした政治的結合のシンボル、あるいは朝廷への服従を示すためのあかしであった、などとされる。馬ノ山4号墳では、大和朝廷から賜った宝器ともみられる三角縁神獣鏡や石釧(いしくしろ)・車輪石も出土している(後述)。その規模の大きさからみて、同古墳の被葬者の支配力は、広く伯耆一円を覆っていたものと思われる。なお、別の推論では、この被葬者は大和朝廷から当地に派遣された豪族ではなかろうかとみる説もある。
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