第2編 歴史

第1章 原始・古代

第3節 弥生時代

 

銅鐸のこと

銅鐸(たく)は弥生時代に日本で作られた釣り鐘状の青銅製品である。もとは農耕に関する祭事用の楽器であったと推定され、のちには呪(じゅ)術的な祭器あるいは共同体の宝器に変わったと考えられている。身(み)(筒形の部分)の文様から、袈裟(けさ)を縫い合わせた形に似ている袈裟すき文と、流水文の2つに大別される。県内からは、倉吉市小田、泊村小浜、北条町米里、東伯町八橋、東郷町北福など、県中部を中心に15個ほどが見つかっている。その大部分が高さ20〜45センチメートルであるが、東郷町北福と羽合町・長瀬高浜遺跡から出土したものは高さ9センチメートル前後と小さく、しかも、身の部分に文様が見られない。このような小銅鐸は、全国でわずか15例を数えるほどの珍しいものである(前掲『日本の古代遺跡9鳥取』)。また、泊村出土のものは、銅製の舌(ぜつ)2本を伴出したことで知られる。舌は、銅鐸内の上部から垂らし、揺り動かして音を出すための付属品である。このほか、岩美町新井と泊村小浜の銅鐸は、それぞれ神戸市桜ヶ丘や滋賀県新庄の出土のものと同じ鋳(い)型で作られたとみられ、畿内で製作され、地方に運ばれてきたと考えられている。

 県内の銅鐸を含めて、その大部分は偶然の機会に、単独で発見されることが多かった。しかし、特に小銅鐸については、近年、各地での発掘調査中に出土する例が増えている。しかも、弥生時代末期の井戸跡や、長瀬高浜遺跡のように古墳時代前期の住居跡から見つかる例が多い。このため、小銅鐸は古墳時代の祭事に用いられるとする説も強まっている。長瀬高浜の場合は、形態的に古い型に属することから、弥生時代から引き続いて使用されたものとみられる(前掲『日本の古代遺跡9鳥取』)。

 

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