第2編 歴史

第1章 原始・古代

第3節 弥生時代

 

出土地の謎

 この家屋形土器の出土地について2説がある。国の重要美術品に指定されるほどの貴重な遺物でありながら、その出土地は明確でない。

 発見当時の状況が不明ななかで、この土器に関する最初の文献資料は、昭和9年に谷田亀寿が著した『舎人村郷土史輪・上代編』である。このなかで、「漆原新宮円墳にて刀剣・人骨と併出」したと紹介している。その後、谷田は昭和42年発行の『羽合町史前編』で、「東郷湖畔船隠から出土した」と、かつての自説を覆す見解を示した。このことで出土地の謎(なぞ)が深まった。恐らく谷田自身、大正5年の発見当時、出土品を確認していなかったのであろう。後年、関係者の証言などから自説を変更するに至ったと思われるが、今それを確かめることはできない。

 漆原の新宮円墳は、字「成ル」の3号墳をいう。箱式石棺が確認されるほか、横穴式石室らしい遺構も見られる。直径30メートル、高さ2.6メートルで造営時期は不明である。横穴式石室は、後に築造されたものであろう。

 東郷湖畔の「船隠」とは、地元で呼び継がれた通称であり、厚生年金鳥取ふじつ荘のある藤津字「南フクラ」や字「ナメラ」付近の湖岸線一帯を指す。ここは天正年間、御冠山に陣を敷いた羽紫秀吉が、馬ノ山の吉川勢にさとられないよう軍船を隠した場所と伝承されている。

 従来の船隠説では、字「南フクラ」の湖岸の崖(がけ)から出土したといわれてきた。このため、研究者の間では、一帯の崖は弥生時代後期の墳墓の立地とは考えられないとし、円墳から出土したとすることには疑問を示しながらも、漆原説を支持する意見が多かった。しかし、最近になって晩年の谷田自身が、ふじつ荘の東南東に当たる字「ナメラ」付近の丘陵上の畑(現在は荒れ地)から出土したと話していたことが明らかになった(宮内・河本茂談)。近くには、弥生・古墳時代の大鼻遺跡、前方後円墳の狐塚古墳などがあり、これらの時代を通じて集団の生活が営まれていたとみられる。このため、船隠説がにわかにクローズアップされている。

 いずれにしても、時期的には弥生から古墳時代へ移行する過渡期の段階である。家屋形土器そのものが、形態的に古墳時代前期(4世紀)から現れる家型埴輪への萠芽を多分にはらんでいる。吉備地方との交流をもとに、のちの古墳時代を現出させるような高度な文化が当地で蓄積されていたことを、この土器は物語っている。

 

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