第2編 歴史
第1章 原始・古代
第3節 弥生時代
町内の弥生遺跡
東郷湖に注ぐ舎人川・東郷川・羽衣石川・埴見川の各河川の流域には、それぞれ平野が開けている。いずれも小規模な沖積平野である。こうした河川沿いの沖積地や湖岸沿いの低湿地は、大規模なかんがい工事を必要としないため、水田として最も開発しやすい土地であったと思われる。弥生時代以来、この地に水田開発が進み、当時の人たちの生産活動があったと推定される。
この時代の町内の遺跡・遺物は多くはない。倉吉市や羽合町で発掘されたような住居や墳墓の跡はまだ発見されていない。当時の人々の生活の場は平地にあったと考えられるから、遺跡は水田の下などに埋没しているのかもしれない。その一つに、湖畔に近い長江字「隈ヶ坪」がある。ここでは昭和40年ごろ、水田の排水工事中、地下1メートル前後から弥生時代の大甕(がめ)2種の口縁部が出土している。一帯は羽合平野の末端に位置し、当時の地床は今より少し高く、住居地(注)として差し支えなかったと思われる(『羽合町史前編』)。
このほか、弥生時代のものと思われる遺跡に藤津の大鼻遺跡があり、遺物では後述する家屋形土器と銅鐸の出土が知られる。
(注) 前掲『山陰の前期古墳文化の研究�T』によると、長江字「隈ヶ坪」から、古墳時代の遺物である土師器と須恵器(後述)が出土したという(隈ヶ坪遺跡)。また、『鳥取県史2中世』では、大永年間(16世紀)の浄土真宗の布教の拠点として、伯耆のウノ・ハシヅ(現・羽合町)と橋本の地名を挙げ、道場が建てられていたとする。橋本とは、字「隈ヶ坪」に隣接した字「橋本」に比定される。一帯は、現在水田になっているが、弥生時代から中世にかけて、人々が移住していたと考えられる。