第2編 歴史
第1章 原始・古代
第2節 縄文時代
町内の縄文遺跡と出土品
町内の縄文時代の遺跡、遺物は数が少ない。昭和58年度に町教育委員会が発行した『東郷町内遺跡分布調査報告書』は、縄文式土器の散布地として、野花第2遺跡(字「栩谷」)、別所第2遺跡(字「宮坂」)、同第6遺跡(字「宮ノ谷」)、白石第1遺跡(字「崩レ」)、福永第3遺跡(字「丸尾」)の6か所を挙げている。土器はいずれも破片であり、文様の特徴などが明らかなものは数が少ない。これらの遺跡は、いずれも90メートル以上の高地にある。白石第一遺跡が最も高く、標高180メートルである。町内の山中で狩猟・採集生活をした縄文人がいたものであろう。
このほか、昭和53年に山陰考古学研究所が発行した『山陰の前期古墳文化の研究T』は、北福第三遺跡(字「大田」・「角田」)の磨り消し縄文土器数片(後期)と、門田の貝塚(字「前田」)から採集された時期不明の土器2片を紹介している。このうち、磨り消し縄文とは、縄文を施した上に、ヘラで文様を描き、縄文部分を交互に区画したもので、後期・晩期の土器の特徴とされる。
前掲『東郷町内遺跡分布調査報告書』は、縄文式土器の散布地から出土した土器として、別所第2・第6両遺跡の磨(す)り石を挙げている。木の実を磨りつぶして粉にするために用いられたものであろう。また、長和田字「五郎谷」から出土した磨製石斧(ふ)、同字「津浪」の津浪遺跡から出土した石錘2個などが知られている。このほか、石鉈(なた)、砥(と)石、石皿などの出土品が報告されているが、年代が明らかでないものが多い。
このように、町内の縄文時代の遺跡、遺物が少ない理由として、住んでいた縄文人の数が少なかったか、縄文式土器がもろくて滅失したか、時代が遠くさかのぼるだけに地中の深い部分に埋もれているか、あるいは、いわゆる「縄文海進」など東郷湖周辺の水位の変動で流し去られたことなどが考えられよう。資料が少ないだけに、この時代の様子は解明できていない。今後の新しい発見に期待したい。
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