広報ゆりはま 8月号
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広島原爆被災者救護活動に出動して川本さんが見たものは― 「昭和20年8月6日8時15分、原爆が投下された時刻に、私たちは賀茂海軍衛生学校の実習室にいたのですが、大爆発音と激しい振動で部屋のガラスが割れました。『危険だから外に出ろ』と言われて屋外に飛び出した時、南西の空に巨大なきのこ雲を見ました。広島市内の弾薬庫が爆発したとか、新型の時限爆弾が投下されたとか、いろいろなうわさはありましたが、広島市内に重大な異変が発生していることだけは分かりました」 「路上にたくさんの遺体が転がっていました。家族と思われる人たちが3人、5人とあちこちの防火水槽に折り重なって亡くなっていました。防空壕ごの入口には、積み重ねられた遺体がありました。小学校では、やけどで苦しんだと思われる子どもたちがプールの中に飛び込んで亡くなっていました。必死だったのでしょう。ああいうのを『生き地獄』って言うのでしょうか」 「被爆者の受入所に並んで治療を待つ人たちに服を着ている人は少なく、着ていても爆風でボロボロになり裸同然の姿でした。皆一様に体中にひどいやけどを負っており、このような人たちが真夏の炎天下に長い列をなしている様子は、まるで地獄でした。たった一発の爆弾で尊い命が奪われ、建物も崩壊する。こんな悲惨な状況は見たことがありませんでした」 「川には、熱さから逃れ、↖現東広島市にあった賀茂海軍衛生学校の練習生だった川本さんは昭和20年(1945年)、広島市内の被爆地に救護活動に出動されました。川本さんにとって初めての救護活動。まだ16歳だったそうです。翌7日の夕方、川本さんたちに広島原爆被災者の救護のための出動命令が下されます。原爆とは何か、救護や任務の内容はどんなものか、その時の川本さんは知る由もありませんでした。しかし、8日の早朝に2台のトラックに便乗して救護に出発した約70人の派遣隊員は、現地で原爆の惨状を目にします。いまだ燃え盛り、黒煙が噴出する町中にあふれる悲惨な遺体を目にした川本さんは、何をすればいいのか全く手を出せない状況だったと話します。それでも、川本さんたちは救護活動を開始しました。気を引き締めて治療を続けますが、あまりの負傷者の多さに医療資材が不足し、その場限りの気休めの治療しかできませんでした。そして、治療や看護を受けたかいもなく、収容された人たちは次々と力尽きていきます。川本さんの被爆者健康手帳。今も年2回定期健診を受診されているそうです。(画像を一部加工しています) 広島、長崎への原爆投下、そして終戦から今年で76年が過ぎようとしています。悲惨な戦争の教訓を後世に伝えながら、世界が恒久平和である社会の構築を目指すことは、現在を生きる私たちの責務です。しかし、戦争を知る世代の高齢化が進む中で戦争体験の継承も困難になっています。戦争の記憶を風化させないため、戦争を経験された川本嘉幸さんに当時のことをうかがいました。    う4戦争の悲劇と平和の尊さを語り継ぐ。

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