第2編 歴史
第4章 近代・現代
第6節 観光
 1  温泉街の発展

温泉掘削に関心深まる
 「立木柳蔵日記」によると、大正2年当時、松崎青年会(「社会教育」の節を参照)が温泉掘削に取り組んでいたことが知られる。すなわち、同年1月15日の項に、「松崎青年会に出席して温泉鑿掘問題を討議。由来松崎村付近には温泉湧出すること多し。独り松崎村に無し。因りて久しく本村の温泉湧出は疑問となり。青年会はこの問題を解決せんとして、この壮挙を議題とす」とある。この場合の「松崎村」とは、松崎駅前周辺を含めた地域を指すものと思われる。当時の駅前の辺りは、地籍上東郷村中興寺地内であるが、住民は松崎から移った人が多く、駅名も松崎であり、一般に松崎と呼ばれていた。養生館のある引地や、対岸の浅津には温泉が出るのに、松崎では温泉がまだ出ていなかったと思われる。そのために、青年会が温泉掘削に挑んだのであろう。松崎青年会第2支部会では、同年7月2日までに2回ばかり会員が温泉掘りの手伝いをしている。掘削の結果は不明であるが、温泉の掘削に人々の関心が深まっていたことが知られる。
 なお、前掲『本邦温泉論考』には「松崎停車場前には大正二年掘せん(ママ)した鉄道官舎第一号井(深さ100尺、水温摂氏32.5度)があり」と記されている。この泉源は、松崎青年会が温泉掘削を議題にした後に見つかったものであろう。鉄道官舎とは、後に河本旅館が建てられた付近と思われる。また、翌3年1月15日付けの『因伯時報』は、前年の春、松崎駅前の掘削中の井戸から温泉が噴出したため、付近の地所の思惑買いが始まったと報じている(松尾茂『鳥取明治・大正史』)。
   
<前頁
次頁>