第2編 歴史
第4章 近代・現代
第6節 観光
 1  温泉街の発展

龍湯島のこと
 温泉地「龍湯」の初見は、明治6年3月発行の『鳥取県一覧表』である。当時の県内の温泉地として、高草郡・吉岡、気高郡・勝見(現・浜村)、河村郡・三朝などと共に、「引地村・龍湯」の名が見える。場所は町役場裏の湖岸である。かつては湖中に浮かぶ島があって、橋が架かっていた。湖畔の景勝を詠んだ「東郷湖十勝」の1つに「龍湯島長橋」が挙げられている(資料編120号)。吉田東伍編の『大日本地名辞書』に、「引地に鉱泉あり、温度百十度(注・華氏と推定)、塩類性とす。其湧源は東郷池の池中にして岸を距る六十間許〈ばかり〉なるを以て、堤防を造り湯槽を置き、往浴に便すと雖〈いえど〉も、風雨には奈何〈いかん〉ともする能〈あた〉はず。明治五年初めて槽〈おけ〉を置く」とあるのは、龍湯島を指すと思われる。明治5年には、既に入浴設備ができていたのである。
 前掲・松崎郵便局の「状況調書」によると、明治36年から39年まで龍湯島に温泉場1戸、5〜6人が住んでいたことが知られる。また、同36・7年ごろは、4月から11月にかけて、西伯郡・因幡・出雲などから年間千数百人の客があったとも記録されている。旅館の名前は不詳であるが、「龍湯」あるいは「龍湯島〈じま〉」の名称で親しまれていたものであろう。経営者も明確でないが、羽衣石の尾西沢次郎が経営した時期もあったといわれる。前掲「状況調書」には明治40年以降、龍湯島の戸数はゼロとなっており、このころ廃業したものと推定される。
 なお、「龍湯」の地名の由来は明らかでないが、宮内にある東郷湖岸の弁天岩付近と龍湯島の間を、蛇(あるいは龍)が往復していたとの民話も伝わっている。また、龍湯島は、龍渡島あるいは龍頭島と表記されたことがあるといわれる。町役場付近の一帯は昭和53年、この地名にちなんで龍島〈りゅうとう〉と改称された。


明治6年『鳥取県一覧表』
(発行者不明)の温泉の部
明治末年(推定)の龍湯島
橋脚が残っている。
(松崎・足羽愛輔所蔵の絵はがきによる)
 
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