絵図中に「一宮」と表記されているのは、伯耆六社のなかで「伯耆一宮」と称される倭文神社を示します。当神社には「正一位伯州一宮大明神」と刻まれた「勅額」と称する古額も所蔵されています。
 創建年代は不明ですが、社名は創建当時、当地の主産業であった倭文(しづおり)の織物に由来します。主神は織物の祖神・建葉槌命。安産の守護神とされる下照姫命も祭ります。
 宮内周辺には神社を守護する神宮寺が置かれ、康和5(1103)年には境内に隣接する山林に経塚が造営されています。この経塚は大正年間に発掘され、遺跡は「伯耆一宮経塚」として国史跡に、出土した銅経筒、金銅仏等は一括して国宝に指定されています。
 倭文神社には、かつてその社領の範囲を示す四方鳥居があり、東は小浜、北は宇野、西は門田、南は片柴に建っていたと伝えられます。絵図中にも一宮領として東郷池の対岸に「一宮領長江」、海岸に沿って「一宮領宇野」があり、東北のはずれにも「一宮領那志多」が描かれています。このように、東郷荘絵図には領家分、地頭分だけではなく、一宮とその領地がかなりの比重で描き込まれていることに注意しなければなりません。
那志多
 現在、「ナシダ」の地名は残っていませんが、大字「宇谷」沖には漁師が「ナシダグリ」と呼ぶ海域があります。当地方では天神川河口沖の天神礁(テンジングリ)など岩礁を「グリ」と呼んでおり、「ナシダ沖の岩礁」という意味と推測できます。「ナシダ」という地名がかつて存在したことを示す貴重な伝承です。

 土海は「ハナミ」と読ませ、土海宮は現在の埴見地内に所在していました。埴見にある籠守神社宮司家に「土海宮神主」と書かれた文書が伝わっており、同社がかつて土海宮と称したことがうかがえます。現在の社殿は元禄13(1700)年の建立とされ、県中部で最も古い神社本殿建築として鳥取県保護文化財に指定されています。
 埴見地内には現在も「土海(ドカイ)」姓が多くあり、明治22年には町村制導入により野花、長和田、羽衣石、門田、佐美、長江の6村と合併して「花見村」を称するなど、「ハナミ」の名は地域の歴史に深く刻まれています。
 寺として記名があるのは木谷寺・置福寺の2寺ですが、両寺の位置は現在のところ不明です。絵図でみると、木谷寺は野花谷の奥の辺り、置福寺は別所の辺りと推定されます。
 別所地内の奥に字「寺処」の地名があり、置福寺の参考地です。小鹿谷には字「重福寺」があり、発音も近いので、奥山に位置した置福寺が後世この地に移転した可能性も考えられます。
 桂尾宮と守山宮はともに小鹿谷にあったとされます。当地には字「桂尾」「森山」の地名が残ります。桂尾宮は、八幡神を祭神とするところから、後に八幡宮と称しました。同社は歴代武将の崇敬が厚く、羽衣石城を治めた南條氏の祈願所となり、社領数石の寄進を受けています。藩政時代には藩主池田家の祈願所となりました。明治維新後、小字名をとって無格社秀尾神社と改称。大正4年、この秀尾神社を含む旧東郷村の13社が合併して現在の東郷神社が新設され、以降廃止されました。

 社伝によると、鎌倉時代に荘園の守護神として京都の松尾神社(現在の松尾大社)から勧請され、当初は東郷池北西の布河村(現在の光吉)に鎮座していました。その後、洪水のため社殿が流出し、南岸の野花村に漂着したことから、現在地に祭られることになったといわれます。このため、光吉村には「松尾屋敷」と称するところがあり、かつては松尾大明神の幟を立てる習慣もありました。室町時代以降には羽衣石南條氏の祈願所として崇敬され、宮司家には天文から永禄年間の礼状、寄進状などが残されています。大正11年、花見村内の6社を合併。現在の本殿は宝永3(1706)年に建立されたものです。


 日本海にはむしろの帆を張った大型の帆掛船が3隻描かれています。いずれも西へと向かう描写をとっているのが興味深い点です。「北」の文字に接して描かれている岩は、実際よりもかなり大きく描かれています。これは、この岩が船津の目印として機能していたことを現していると推測されます。日本海の荒波に打たれ鳥居をいただくその姿は、現在もまったく変わっていません。

 

橋津川東岸に鎮座する今日の湊神社です。創建年代は明らかでありませんが、嘉祥元(848)年諸国神叙位によって正六位に、貞観9(867)年には従五位下に叙されており、こうした格式をもつ神社が当地にあるのは当時から橋津が物流の拠点として重視されていたからでしょう。
 藩政期には橋津に灘蔵が置かれ、宝永元(1704)年に御手船12隻の停泊所に指定されています。また、同年御廻米安全祈願を請願した折、祭日に永代舟御幸を執行するよう申し渡されました。これが近年まで行われていた神輿や行列の船渡しです。

 絵図に描かれた海岸線は、橋津川河口を境に西側は砂浜が続いていますが、東側は険しい岩場となっています。この岩場は現在も橋津海岸で観察できます。橋津海岸の断崖を構成する岩石には、板状の割れ目が入っています。これは火山活動による溶岩が急に冷え固まってできたもので、鉢伏山板状安山岩と呼ばれています。
 断崖の下は縄文時代に海面が現在より上昇していた頃の海岸線で、波によって侵食された海食崖となっています。

 東郷池は鳥取県の3大湖沼の1つ。周囲約10㎞、面積約4㎢、水深は平均1.8m,最大3.6mの汽水湖です。江戸時代にはすでに池中から温泉が湧出することで知られ、山陰八景の1つにも数えられる風光明媚な池です。成因については、もと日本海の入江であったところに天神川が上流から花崗岩の風化した砂を流し出し、それが堆積して羽合砂丘や北条砂丘をつくり、やがて入江がせき止められて取り残された潟湖であるとされます。
 池の外形は、埋め立てにより西岸の湖岸線が前進したほかは、絵図に描かれた頃からあまり変化していません。
舟の描写
 絵図には池面に2隻の舟が描かれています。このうち、長江の前面に浮かぶ小舟には、笠を被った人物が乗っており、絵巻などに描かれる漁民の姿と同様の表現です。池面中央のもう1隻には櫓櫂をあやつる2人の人物が描かれており、同荘の中心線から北の湊へ向かっているようにみえます。こちらの人物は烏帽子を被った姿で描かれており、両者がなんらかの意図で描き分けられていたことがうかがえます。

 絵図には、東郷池や日本海、周囲の山並み、川の流れなどが見てとれ、現代の地形も当時とおおよそ変わらず残っていることがわかります。
 よく眺めると、社殿や民家、放牧された馬、船なども見え、当時の自然環境や住民の生活ぶりも伝わってきます。添え書きされている地名や寺社の名称も現代とのつながりを読み解く鍵になりそうです。
 想像力をはたらかせて、その場所に出かけてみると、また新しい発見に出会うかもしれません。楽しみ方は無限に広がります。


 

 絵図には東分とされた西小垣の砂山上に朱塗りの牓示が描かれています。牓示は荘園の境界を示すためのもので、東郷荘と北條郷の境界として描かれたものと考えられています。
 この付近からは弥生時代から室町時代にかけての複合遺跡、長瀬高浜遺跡がみつかっており、「高浜」の名が示すとおり、一帯には古くから砂丘が広がっていました。この砂山もこれら砂丘を描いたものとみられます。


 中分境界は道路のあるところはそれを利用しており、絵図中の廣熊路と紫縄手は当時の条里の坪界です。南北に伸びる廣熊路は隣接する西郷との境界を、紫縄手は伯井田の中分線を表しています。
 廣熊路については、現門田集落西側の尾根上にランドマークとなる大木があったと推定し、これと浜の牓示とを結んで求められた線だったとする説があります。

 橋津川は昭和末から平成にかけて流路が直線的に変更されました。絵図に描かれた蛇行する橋津川は旧流路です。
 この旧河道は閉塞されず、現在も親水公園として親しまれています。絵図にみる橋津川には橋が架かっていますが、蛇行する河道との位置関係から、現在の南谷付近にあったものと考えられます。

伯井田
 「伯」は万葉仮名で「ハハ」の字に用いられ、「伯井田」は「ハハイダ」と読めます。後の「羽合田」「羽合郷」「羽合町」へとつながる「ハワイ」の地名が確認できる現在最古の貴重な資料です。