池の南側(長和田・耳江・倉渕・西別所)を見ると、松尾社・長智宮・土海宮・桂尾宮・守山宮・志津宮・加那子など多くの神社が描かれています。耳江には朱色の鳥居があり、ここにも神社があったようです。木谷寺・置福寺といった寺院も描かれ、この一帯が当荘の中心地であったことを示しています。
 平地とおぼしき一帯には、格子状に表現された田地が広く分布し、池畔に沿って多くの家屋が描かれています。掘立柱の在家に加えて、長和田や長江には礎石つきで縁のある大型の家屋があり、領主の存在がうかがえます。
 池の西側にあたる伯井田は、広い平野として描写され、格子状の田地が連なっています。在家も散在して描かれていますが、ここには縁や礎石のあるものは見あたりません。その北に連なる小垣は格子状の田地はあるものの、在家は描かれておらず、それぞれに差異があったと思われます。
 池の東北の地域は馬野と記された一帯で、12頭の馬が駆ける様子が描かれています。橋津川に沿って集落が展開し、礎石つきで縁のある領主の家や掘立柱の在家が多数描きこまれています。格子状の田地も見えますが、家数に比べると狭少であり、この地域の生業が多様であったことを暗示しています。また河口には大湊宮が見え、沖に浮かぶ帆掛船と対応する構図になっています。

 東郷荘の領家は、延徳2(1490)年に京都の松尾神社(現在の松尾大社)が守護による「東郷荘領家職」の侵害を訴えていること、中世を通じて松尾神社と東郷荘との関わりが確認できること、この絵図が松尾神社に伝来したことから、京都の松尾神社であることがわかります。
 地頭については、史料的制約が大きいですが、原田氏系図によれば、原田氏の子孫である東郷氏であったと考えられます。同系図によれば東郷氏は近隣の笏賀荘・三朝郷・竹田郷の地頭職も有していました。鎌倉での活動を示す記述もあり、東郷氏は幕府の御家人として東郷荘を中心に勢力を有していたと考えられます。
 原田氏系図によれば、平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した東郷信平がその所領を京都の松尾神社に寄進しています。これを機に京都の松尾神社を領家とする東郷荘が成立し、信平は現地を管理する下司職などに任命されたと考えられます。鎌倉幕府成立とともに下司職が地頭職へと変わると、幕府の後ろ盾を得た地頭は次第に領家の権益を侵し、ついには両者の対立が起こったものと考えられます。この対立は幕府法廷に持ち込まれたものの、東郷荘を折半する形で和解が成立し、それぞれの支配地を明示するために本絵図が作成されました。

 南側の境は三朝との間にあります。奥深い山地であることを示すために、濃い緑青色の山々とその周囲にたなびくかすみによって表現されています。
 西側は西郷と北條郷に接しています。東郷荘と西郷は、山の稜線と廣熊路によって隔てられており、北條郷内の長瀬村とは北條川(天神川)で隔てられています。北條川は南から北へと流れ、橋津川に合流して日本海に注いでいる様子が見てとれます。また、西北部の海岸地域には、砂丘上に立てられた朱色の杭(牓示・ぼうじ)があり、東郷荘と北條郷の境が明示されています。なお東側は、西を天にして描かれる山の稜線によって隔てられており、笏賀・野方が領地外であることを示しています。
 南の深山を除いて、山並みの表現はゆるやかで、淡い緑青や紺青に彩色されています。
 このうち、一宮領とする長江・宇野・那志多の山が、水面と同色に彩色されています。これは一宮領を表しているようであり、荘域外ではありますが、笏賀も一宮領であったと推察することもできます。
 南部の深山を別にすると、樹木は寺院、神社、道、池岸などに数本描かれる程度です。例外は池の西南部の耳江と長江の間に描かれた巨大な一本杉で、両者の境界を明示していると考えられます。

 この絵図は、正嘉2(1258)年、「伯耆国東郷荘」の領有権をめぐって対立していた領家と地頭の支配地域を明確にするために作成されました。絵図の境界を示す朱線の両脇には、当時の鎌倉幕府で執権を務めていた北条長時とその補佐役である連署を務めていた北条政村の花押が据えられています。
 領家と地頭の両者が、鎌倉幕府の法廷でその支配地を折半することで和解し、下地中分を行ったことを示しています。
下地中分(したじちゅうぶん) 
下地とは、田畑・山林・原野・河川など地域の中で収益の対象となる土地そのものを指します。これを荘園領主と地頭との間で分割し、それぞれの領分については互いに完全支配を認め合うのが下地中分です。

 いずれも鎌倉幕府の職名。執権は将軍(鎌倉殿)を補佐して政務を統括する職です。連署は執権を助けて政務を行う職で、幕府発給の文書に執権とともに署判を加えたことから連署といわれました。北条氏は両職を独占的に世襲することで鎌倉幕府の実権を掌握し、政務を執りました。なお、文永元(1264)年には、長時に代わって政村が執権となり、時宗が連署に任ぜられています。



 絵図には、東郷池や日本海、周囲の山並み、川の流れなどが見てとれ、現代の地形も当時とおおよそ変わらず残っていることがわかります。
 よく眺めると、社殿や民家、放牧された馬、船なども見え、当時の自然環境や住民の生活ぶりも伝わってきます。添え書きされている地名や寺社の名称も現代とのつながりを読み解く鍵になりそうです。
 想像力をはたらかせて、その場所に出かけてみると、また新しい発見に出会うかもしれません。楽しみ方は無限に広がります。

 絵図には、東郷池や日本海、周囲の山並み、川の流れなどが見てとれ、現代の地形も当時とおおよそ変わらず残っていることがわかります。
 よく眺めると、社殿や民家、放牧された馬、船なども見え、当時の自然環境や住民の生活ぶりも伝わってきます。添え書きされている地名や寺社の名称も現代とのつながりを読み解く鍵になりそうです。
 想像力をはたらかせて、その場所に出かけてみると、また新しい発見に出会うかもしれません。楽しみ方は無限に広がります。

 この絵図は、京都の松尾大社の神官である東家に伝来しました。現在は個人の所蔵となっているため、ここでは東京大学史料編纂所が明治後期に作成した模写本を原本に準じるものとして使用しています。数点ある模写の中でも同所のものは特に精密で、虫食いや折り目の跡に至るまで忠実に再現されており、原本と寸分の相違もないとされています。大きさ縦127㎝、横98㎝程度です。


 本絵図の作成目的は、領家である松尾神社と地頭の間で支配地を折半する下地中分でした。
 絵図の裏書きによれば、下地中分は、道路のあるところは道路を堺とし、堺となるもののないところは、絵図上に朱線を引き、その現地に両方が寄り合って堀を掘り通したとあります。南方の堺は、置福寺と木谷寺の中間を境界として堀を掘り進めたが、深い山谷に当たるため、その先はまっすぐに見通した直線を境界とすると記されています。荘地は、池の南側、池の西側の伯井田、西北の小垣、東北の馬野の4つの地域によって構成されており、そのそれぞれが朱色の線によって2分割されています。